水道水ガイド
水道の歴史

歴史を通じて人々は、より便利に水を取得して利用する方法を試行してきました。世界で最初に水道が建設されたのは、
今からおよそ2300年前のローマ。帝国の拡大に伴って発生した都市での水不足を解消するために、
近くの山の水源地から都市へと直接水を引く水道橋の建設を行ったのです。今でもその一部が現存するその水道は、
「ローマ水道」と呼ばれています。遠く離れた水源地から、直接水を運ぶため、石造りのアーチ橋の中に水道管を通し、
水が流れやすいように少し傾きが加えられました。
水の通る管である水道管は、当初は木や陶器で作られていましたが、
金属を加工する技術が普及してからは、鉛を鋳造して作られた鉛管が使用されたのです。
ローマ市内には11の水道があり、そのすべてを合わせた全長はおよそ480キロメートル。
1日にローマ市民が使った水の量はおよそ1,000リットルと言われており、
豊富な水量を確保できていたことがうかがえます。ただし、自分の家まで水道を引くことができたのは一部のお金持ちだけだったようです。
また、南アメリカのペルーを中心とした中世期のインカ帝国にも水道があり、
謎の空中都市として知られるアンデス山中のマチュピチュにも、水道が発見されています。
しかし、古代から中世までの水道は、高低差による導水、配水が主で、単に飲料に適した水を引くという水道にすぎませんでした。
日本の水道の歴史(戦国時代)
日本では、戦国時代、北条氏康によって日本初の上水道小田原早川上水が建設されました。
江戸時代には、江戸に幕府を開くにあたって水を供給するために神田川の流れを調整し、
これが発展する形で神田上水が出来上がりました。また江戸幕府が開かれてから50年後には、
多摩川から江戸に水を引くための玉川上水の建設が開始。
その後、江戸市中に張り巡らされた配水管の全長は150キロメートル以上となり、
給水面積、給水人口共に世界最大の給水システムが完成したのです。
ただし、ヨーロッパではすでにポンプによる圧力導、配水路が建設され、より大きく進歩した水道技術が普及していたのに比べ、
江戸時代の水道は、重力のみを利用した導、配水路であり、近代的な水道技術の普及には、しばらくの時間が必要でした。
それでも、「水道水で産湯につかる」ことは、江戸っ子の誇り。
地方でも赤穂水道、福山水道、桑名御用水、高松水道、水戸笠原水道など、40あまりの上水道が整備されました。
なお、このころ、質の良い川の水を売る者が現れて商売になっていきます。
ミネラルウォーターを買う、という習慣は意外に古いものだったのですね。
日本の水道の歴史(明治)

明治に入ると、江戸末期から流行り始めたコレラ等の伝染病対策として上水道の整備が行われました。
江戸時代の水道は川の水をそのまま利用し、木造の水道管で給水していたため、
その水質汚染が原因でコレラの大流行を招いたのです。
さらに、自然の川の勾配で配水するシステムだったために水圧が低く、火災発生の際の消火活動に役立たないなどの問題もありました。
そこで、これらの問題を解決するために外国技術者の協力を得て、「近代水道」の建設が決定したのです。
16世紀後半、イギリスより広まった近代水道は、テムズ河を水源とし、水力によるポンプ揚水により飛躍的な給水量の増加をもたらしていました。
その施設は改良され、1804年には砂で水を浄化する「濾過法」も開発されています。
この濾過法は現在の水道システムの基礎であり、ヨーロッパ全世界へと普及しました。
そして、この近代水道が日本で最初に建設されたのは横浜。
その成果は著しく、都市部を中心に上水道の敷設が進みました。ポンプで圧力をかけられた水流は消火能力も高く、
防火対策としても期待が寄せられたのです。この近代水道の創設により、人々は安全な水を蛇口から容易に得られるようになりました。
水道設備の発展は、第二次世界大戦期には一時停滞するものの、その後の高度経済成長期には飛躍的に普及していきます。
そして、およそ1975年頃にはほぼ日本全国を網羅する上水道網が完成したのです。
また、経済成長や、風呂・洗濯機などの普及に伴って生活用水、工業用水の需要は大きく増加し、各地でダムの建設など、水源の確保が図られるようになりました。
日本の水道の歴史(現代)
現代では、経済成長期の工業の発展に伴って増加した水質の汚染による被害も深刻な問題となっています。
1967年には公害対策基本法、1933年にはこの公害対策基本法を改正した環境基本法が制定されました。
国境を越えて地球の水や環境を守ろうと、他にも様々な取り組みが行われています。